音楽が、僕らの自然。ポエミュージック
毎朝大体5時に起きてます。これはもう、ここ5年位の習慣なんで変わらないんですけど。
今朝、外の空気を吸おうと思って団地の廊下に出たら風が吹いていて。風というものは透明だから、目に見えないし、体に浴びて初めてそれは肌感覚として感じられるんだなぁと再確認。水の温度を計ろうとしても、水温計の温度自体が水に伝わり、正確にそれを知ることはできない。そんな対応性。
そして、風を肌に感じながら、音や匂いをかぎ、これは触れなくても感じられるなぁとか、感覚で情報を処理していくわけですが。
その情報処理の仕方が、幼い頃よりも明らかに変わっていたんだなぁと嬉しくなりました。
多分それは、2019年に1年間勤めた職場の関係で…デスクワーク半分清掃半分の仕事をしてたのですが、そこでだいたい1日1時間外回りの清掃をやっていたんです。掃除の仕事はスキル面で言えば一番好きな仕事だし、自然の多い土地だし、最高で。
週末明けてみると、先週咲いていなかった花が咲いていたり。夏、大きな立体駐車場に1番落ちてるゴミと言えばアブラゼミの羽根だったり。ひと夏で、1000枚以上拾ったのではないでしょうか?
動かなくなってるアブラゼミを、コンクリートから土の上に移動したパターンも10匹以上いましたし。その中にはカブトムシやクワガタも。久々にカブトムシのメスの生命力に関してはやっぱり凄いなぁと感心したり。
とんぼやカナブン、鳥たちとの間合いも面白くて、どの距離まで近づくと互いに反応しちゃうか? みたいなやりとりもすごく魅力的で。20メートル先のカナブンが飛ぶ立つ瞬間を察知したときには、「お、無事感受性が戻って来たな」など、自分の野性を計る基準にもなる。
そう。僕の感受性の根源は、やはり子供の頃に培った原体験としての虫取りや、雑木林や用水路とのつながりからきてるんだなぁと再確認。
今は、その感受性を日々の生活で実用的に使っているんだなぁと思っています。主に近所の団地、軒下のピアノでコラボレーションライブをするときには、その感受性は特に意識し、活かしたい。人間関係という生態系。僕の中のエコロジー。
例えば、今国立大学通りを散歩してたんですけど、この松ぼっくりの配置って意図的に見えませんか?
で、誰かが置いたのかなあ、でもちょっと違うっぽいなぁって思いながら少し歩くと、また同じような配置の松ぼっくりがあったり。風の関係でしょうか?それともいたずら?
光を効率的に取り入れようとして枝を広げる木々の葉っぱの配置が、実は黄金律を持っていたりとか。そうい視点に自分は大体心が動いちょう。
目に見えないものを表すために言語化するのが大好きです。なぜそれをするかと言うと、目に見えるものをより感じるための、体のシステムを作っていくためです。無意識の9から意識の1を読み、意識の1を10に寄せる試み。
そんな風に僕は、何かと何かの「間」、つまり「つながり」を読み解くリテラシーを修練することで、自分の文体と文脈を更新し、世界を感じるためのプログラムをアップデートしている。文化的遺伝子×遺伝子のクエスト。
基本、僕は日本語を使って喋りますが、文体と文脈がオリジナルなので、どんなにシンプルな単語を選んだとしても、そのつなぎ合わせ自体が、独特すぎ、伝わらないということがたまにあります。
それでも、関わり続けてくださる皆さんには感謝ですし、自分も、周りの方の文脈で伝えられるよう、言語の枝を拡大していきたいなぁと日々思っています。
で、言葉で伝えるよりも早く気持ちを伝える手段として、最近は音楽や絵や写真、動画などを選んでいると言うのは多いし、大きいのです。そもそも僕自身が、映像や音やなどの情報をポエム語として読み取っているぐらいですから。
ピアノは即興でしか弾けないので、結果偶然の産物みたいなところが大きいんですけど、だからこそ、その響きを追うことにより自分の心が初めて読み解ける。
そういうことは、自分自身にでさえ、頻繁にあります。
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