アートプロジェクト・『ひかるドブ川』
木工作家の宮下敬史先輩が『千鳥』という器のお店にて、今年も二人展を行いました。
お相手はガラス作家の西山芳浩さん。
昨年にもまして、気付かされたのは、そこにある「作家の現実」でした。
宮下さんは、僕の一番解放された形での自分が出せる先輩であり、他の人には通用しないであろうイキスギくん的ギャグも、余裕で乗ってくれて面白がってくれるのが、ものすごく楽。
何度か宮下さんの仕事の絡みで、ギャラリーやカフェに遊びに行きましたが、宮下さんは誰に対しても正直で、相手に合わせて言葉を選ぶのが上手い。
たぶん、周りよりも自分が強いことがわかっているんでしょうね。
「作家を始めようと思います、大変ですか?」と言うような質問には、毎回、「大変だから、やめたほうがいいですよ」と、正直に答えたりするところも目から鱗。
それをギャグ的な音(声)で発信し、いろいろなものを中和し、安易に闇にしないところもニクイ。
宮下さんには日頃、
「結果が出るまで辛抱」
「自分のポテンシャルは自分にしかわからないから、相手になめられても辛抱」
「作家として生きていくのはサラリーマンより辛い。でも、作家でしか生きられない」など、色々とお話を伺っていました。
宮下さんと普段話すのは、もっと時間やお金があれば、とことん作品の完成度を上げにいけるのに、やはり時間やお金がないから、仕事としてどこかで切り上げなければならない。それは当たり前のことだけど、自分のやりたいこととの乖離を感じる、といった話です。
今回、西山さんとの二人展で作品を拝見しましたが、大きなサイズの一点もの、高額の作品に込められたテンションと、中位から小さいサイズの量産された作品を比べると、後者には、その八割位のテンションしか感じられず、それについて宮下さんにお話を伺いました。
僕の質問を受けた時、宮下さんは、何かをぐっと堪えるように噛み殺した後、
「ある程度で手を止めること」
「作品それぞれに技法があり、それによりサイズや時間の制約の壁を抜けること」
「もちろん、小さいサイズの作品の中にも、同等に良い作品もあること」など話してくださりました。
そういった目線で眺めると、やはり、小さいサイズの作品の中にも、同等のテンションを感じられる作品が多数あり、自分の鑑賞眼の幼さにも気付くことができました。
作家で生活するという事は、作品を作ってお金をもらうことであり、お金をもらうという事は、約束通り時間内に作品を仕上げるということである。
その制約の中で、たとえものすごいアイディアが閃き、あと十時間欲しい! となっても、それは許されない。
なぜなら相手からお金を頂くことで成り立つ、お仕事だから。
作家はクリエイターではあるが、アーティストではないから。
もちろん、僕にとって宮下さんは、アーティストでしかないのですが、現状、アーティストとして生活が成り立たってはいないので、結果、クリエーターという言葉でくくられる羽目になる。
そこにある葛藤を、宮下さんは、現実として引き受けている。
千鳥の初日に、海外からお客さんが訪れ、たくさんの作品を買って行ったと聞きました。
目的は転売であるであろうとのこと。
三倍以上の値で転売するのではないかといった話です。
もちろん宮下さんはその状況に対し、安易にNOとは言わない。
創作で食っていくという事はそういうこと。
その当たり前の現実に向き合うために、今回、千鳥に行ったような気がしました。
最近、人の「強さ」について考えていました。
そして出た答えは、自分の中の理想にたどり着くことが強さではなく、今、目の前に起きている、ありのままのネガティブな現状を、ありのままに認め、受け入れる強さがあるということだと知りました。
それができない限り、理想へと向かう階段なんて作れない。
そして何があっても、階段をつくり続ける方は、強い。
千鳥の裏には、ドブ川が流れ、水面には昼下がりの日差しが輝き、ゆれていました。
この風景が、僕と宮下さんの現実だと思いました。
同時に、芸術をお金に変えるのは、今の僕には難しい。
良い作品を作ろうと思ったら、ある程度の自由が最低条件になるから。
ゆえに、最近は、作家活動は基本仕事でしないことにはしています。
以前詩集を発行した、マイナビ出版との契約更新を行わなかったのはそのためです。
すでに何人かにはお伝えしてありますが、実は、僕は僕自身のアートプロジェクトとして「就職活動」を行っています。
ゆえに「就活」が楽しくてしょうがありません。
そして一番良いのは、(完全な逆説ですが)自分自身、就職活動を全くアートプロジェクトだと思っていないこと。自分の表現として、かっこつけたりしながら就職活動を行っていないことです。
ただ真剣に、就活しているだけです。
作為のない作品にこそ、詩が宿る。
そういった良さが、このアートプロジェクトにはあります。
そして僕は日々、美しい時間を創造するアーティストたちとともに、就活をしているのです。
アートを生み出すのに自由が必要ならば、逆に、自分が自由にアートを定義することだって許されるはず。
ならば、感じること全てが、アートとして感じられる詩人という生き方においては、そういったことが可能となるかと思うのです。
一般的に詩人とは、詩を書く人というイメージがあります。
が、詩に精通している方の共通の意見となりますが、そもそも詩人であれば書く必要などは無いのと、僕も思っています。
谷川俊太郎さんが、「自分は詩人ではない」と公言しているのは、そこにあるかと勝手に思っています。そして詩人である僕から見たら、そんな谷川俊太郎さんも、紛れもなく詩人としてカウントされるのです。
なぜなら僕にとっては、周りの皆さんが、全て芸術家に見えるからです。
万物は世界のメタファーである。
と言うゲーテの言葉がありますが、僕にとって、皆さんの全ての言葉が、詩に感じられるからです。
カタワラノ永遠を一緒にやっている織田さんは、僕のこの考え方を伝えた結果、哲学者であるハイデガーの論文を引用しながら、教えてくださりました。
感じると言うこと自体がアートであり、感受性はすべての方に備わっている。
ゆえに全ての方は詩人です、と。
僕もやはりそれに同感です。
なぜなら、「感じる」、と言う事は、それ自体、受信でありながら発信であるからです。
そして詩人は、感じることによって世界を創り変えることができる。
もちろんこれは、主観によって感じているこの世界の感じ方を変える、という意味を出ませんが。
今日たまたま、使う言語や語彙によって、世界の感じ方が変化し、結果自分の世界が変わるという科学的な論文を読みました。
サングラスをかけたことがない方に、サングラスをかけた状態を想像させるだけの発信能力は僕にはありませんが、詩人であるということは、大体そういうことかと、僕は思っています。
勇者:ダイヤモンド