デジタルzin!ポエジン『宇宙塵』/即興詩人・AI UEOKA

即興詩人・AI UEOKAによるデジタルzin! 雑多な芸術・らくがき日記。

『作家の老年』松浦寿輝さんの講演会に参加して

過剰に活動してしまう。いま、ブレーキのかけかたを学んでいる。


現在、音楽を担当させて頂いているひとり芝居『横なぐりの成長痛(以下:横なぐり)』の、脚本・演出をしている近藤蛇口さんと、丁度一年前くらいに、一気に距離が縮まった。


ポエトリー・スラム・ジャパンという、詩をコンセプトにしたマイク一本のバトル・トーナメントに出た際に、その接近は起った。
たまたま開戦前に蛇口さんと二人、お話しする機会があって、互いの身体の震えについて語り合った。本番、僕も蛇口さんもステージにて、やはり極度の震えが出た。そして蛇口さんは、ステージの最後に、「ここ風強いな」という、即興詩を残して、文字通り、その風に乗って去って行った。


その場面に立ち会い、感動した僕は、敗退が決まり会場からもすぐに去った蛇口さんにメールを出し、その場で即興詩を交換し合い、二日後には飲みに行った。


双極性障害をオープンにし、ご両親に心配を掛けないため、などの理由から、詩の活動を『蛇口』名義で活動されていた蛇口さんに、その頃から色々と『過剰さ』についてのアドバイスを頂くようになった。

僕も、基本『過集中』であり、エンジンがかかると平気でずっと創り続けてしまう。

例をあげると、昨年春、休みが四日間あった時などは、17時間×4日、休憩という概念のないまま作業をし続けてしまっていた。
トイレはギリギリまで我慢した。それはハマっていて作業から抜けられないからだし、食事をとることも平気で健忘する。睡眠をとっても、交感神経が副交感神経のリラックスモードに切り替わらないから、短い時間で起床、またすぐ作業に入ってしまう。


もちろん、その反動として、その3日後あたりから、後の3日間くらいまで、パソコンの前に座ると吐き気がする、みたいな疲れも出るのだが、どうにもバランスが悪過ぎる。


そういった面を蛇口さんは「それはペヨー太くんの才能だよ」と、肯定的に受け取ってくださり、その上で、「やリ過ぎると壊れるまでやり続けてしまうのが、僕らの常だから、意識的にやり過ぎから離脱できるようになった方がいいかもね」と、教えてくださった。

昨年春に、蛇口さん/馬野ミキさん/チン・リーさんで執筆されていた、せきららWEBマガジン『詩と惑星』の再読にハマり、二日間、ほとんど寝ないで読み漁っていたら、その模様をツイートしていた僕のツイートを知った蛇口さんが、わざわざ電話をくださり、「いや、小さな魂が消えてしまうんじゃないか? って思って」とブレーキを掛けくださった。


そういった意味で、僕は昨年、かなりの頻度で、蛇口さんにいのちを救われてもいる。
その後は、年間、20日〜30日していた徹夜的な生活も、年間3日くらいに止めることができた。

僕がいま、僕の『過集中』を動員するのは、「いのちを救われた人に対する恩返し」だけに限定している。


『横なぐり』の予告CM動画の中の蛇口さんの台詞に、

「僕は世界を滅亡から救った経験のある人しか信用していない」

という名言があって、まさにそれ、である。

『世界』は『物』だと、基本、みんな信じている。
しかし、この『世界という物』を『物』として認識しているのは、『時間』の中に生息する『自分』である。
で、『自分』は、『自分の感覚』を通してのみ、『世界という物』を感じ取りながら生きている。当たり前の話である。
つまり、『時間』は『物』ではなく、『感覚』でしかないのだから、『世界という物』などどこにも存在しないということである。
(『禅』などではこの考え方を、『色即是空』と言ったりする)


だから、僕が死んだら、僕の世界は滅亡するだろう。
世界を感じることができる、そもそもの主観がなくなるであろうから。


しかし、世界は物として残り続けるだろう、とも思う。


主観がなくなり、僕が感じ取っている世界が滅亡しても、やはり、世界は残るのではないか? という可能性は決してゼロではない。

僕は「生まれたことがある」。しかし、生まれた瞬間を、僕は覚えていない。思い出せない。


そして僕は「死んだこともない」。
そもそも、誰も「自分の死には立ち会えない」。
死ぬ時には意識がなくなる、と予想されるからだ。
つまり、誰も、自分自身に対しては、「自分が死ぬ」ということを証明できない。


もちろん、周りの方がお亡くなりになっていく、その過程で、『死の実在』を自分の認識として刻み込んでいかざるを得ない。
そういった意味で、たぶん、僕が死んでも『世界は残る』のではないか? と考え、僕は昨年末から、いつしんでも、まぁ、ある程度は後悔しないよう、『死ぬ準備』をはじめた。

『死ぬ準備』とは、自殺を計画しはじめた、とかでは全然なく、『いずれ人は死ぬ』ということを、きちんと念頭に置きながら、今この瞬間を全力で生きる、ということです。

僕が死んだあと、愛している人たちが、少しでも過ごしやすい場所を残しておきたい。
それが、僕にとっての「いのちを救って頂いた方への恩返し」であると思っているから。

僕は、人の『死ぬ確率』を、毎分50%くらいだと考えている。
生きるか?・死ぬか? のフィフティー・フィフティー
デッド・オア・アライブ、50対50である。

次の瞬間に何が起こるかわからない世の中であり、そもそも人間の肉体とは、そういうつくりをしたものである。
その確率はみんな同じだと、最近、思っている。

16年間、夢の中で過ごしいた僕は、昨年春、ようやく目覚めた。
16年間、寝ていたことに焦りもあるし、その年月を16倍速で、1年間くらいで取戻そうと加速しまくっていた。
次の瞬間、死んでしまうことの惜しさを感じながら今も生きている。今を生きている。


だから、健康診断で、悪玉のコレステロール値が高いと判明し、「人の2倍、脳梗塞などを起こす可能性があります、薬を飲みつづけて散らしましょう」、と医師に言われ、「やせたら治りますか?」と返し、「まずみなさんやせられないので薬を飲みましょう」って言われたので、カチンと来て、「お前がそれを決める権利はない!」と言ってぶん殴るのはとりあえずやめて、平和的な解決策として、その日から不摂生を排除し、結果、全く無理のないダイエットを継続し、13キロやせ、今があります。


でも、過剰な作業スケジュールによる睡眠時間の少なさは、やはりなくならない。それをどう切り抜けるか? 悩んでいたのです。



昨日、とある地方文学賞の締め切りで、それには応募すべきだと考えていた。
もし受賞できたなら、直接的に、その地方出身である好きな方に、恩返しができるチャンスだと思ったから。
しかし、少し迷ってもいた。
手元にある、提出用の作品を、長編小説化できるであろう可能性が強く見えていたから。
さらに、もし、その地方文学賞で入選できたなら、著作権の問題が発生してくる。
アイディアを自由に出し入れできない状況に、少し不安も感じた。


その答えを見つけるために、昼間、風邪を引きづりながらも、三鷹市芸術文化センターにて行われた、作家・松浦寿輝さんの講演会『作家の老年』に参加した。
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_event/069/069687.html
松浦さんは、東京大学の教授をしながら、詩・小説・批評を展開されている作家さんだ。5年前に、教壇からは降りているが、今も作家活動は健在である。

講演会の最後に、質疑応答の時間があり、僕は手を挙げ、


ピカソゴッホを例に挙げます。ピカソは、「芸術家にはビジネス能力が必要だ」と言い、ビジネススキルを発揮しながら、広く作家活動を展開しました。一方ゴッホは、生前、ほとんど絵が売れずに終わりました。文学を芸術として捉えた時、その事実をどう考えますか? さらに付け加えるなら、現在、唯一の職業詩人は、谷川俊太郎さんだけです」


「若年層の方へのメッセージとしてお聞きしたいのです。これは、もしも、の空想話ですが、もし、松浦先生が若く、まだデビューしていない状態で、手元に自信を持てる完成度の作品があるとします。それを今現在、この世の中で展開しようと考えた時、どういう展開の仕方を戦略しますか? 文学賞に応募しますか? それとも、アマゾン・キンドルなどの自費出版をはじめますか?」


という、質問をさせて頂いた。

松浦さんはこう答えました。


ゴッホは、そもそもマーケティングやマーケットを意識していなかったと思います。もちろん、絵が売れることは望んでいたとも思います。しかし、心の病気も抱えていました。だからそれは難しかったであろうとも考えます。でも、逆に、病気を抱えた彼にしか描けないであろう絵を、後生に残すことができたであろうとも考えています。彼は彼で、自分の宿命を全うしたのだと。ピカソは、「売れたい」、というより、芸術を広く世に発信する目的の上、マーケットを意識し、ビジネスを展開した。もちろん、別れた奥さんの慰謝料を払わなければならなという現実問題もありますが(笑)。でも、ピカソがアートをビジネスとして展開した目的は別にあると思います。そういった意味で、ピカソゴッホ、どちらがより幸せか? 不幸か? ということは一概には言えないと思っています」


「『詩』というジャンルは、無人島から海の沖に、メッセージを入れた瓶を投げるようなものだと考えています。それが波の乗って、どこかの渚に辿り着いて、たまたま誰かが瓶を蓋を開け、幸運にもそれを読んでくれる。だから、無理に活動を広げたり、作品を展開したりする必要性を感じていません。そういった意味で、今、唯一詩で食べている、谷川俊太郎は、特別な存在であると思います」


「逆に『小説』は、コミュニケーションの中で成立すべき分野だと考えています。できた作品を、誰かに読んで貰い、その中で作品が育っていく。展開していく。そう言った意味で僕は、キンドルなど、インターネットという閉じられた空間だけで完結するものに疑問を抱いていて、小説を展開するなら、やはり僕は、文学賞に応募すると考えます。何故ならそこに『他人の眼』が介在するからです。文学賞の審査委員にはアホな審査員もいる可能性もありますが、いい審査員もいるのは確かです。自分が信頼できる審査員に審査して貰える可能性のある賞に応募するのがいいでしょうし、そこからさらに、『編集者』との出会いに発展する可能性が大きい。いい編集者と出会うには、才能や運の要素も大きいですが、僕ならそうします」

全てが腑に落ちる御答えだった。だいたい自分の感じていたこととも重なり、自分が、何をどう迷っていたのかや、自分の現在の限界も明確になりました。そしていま、この返答を自分の中でどう消化するのか? 今、真剣に考えています。


そういった展開で、やり過ぎにブレーキを掛け、昨日締め切りの文学賞をひとつパスしました。
今回の講演会『作家の老年』で松浦さんが中心に話させていたのは、おもに、「老年という『黄昏』入ってからこそ、人生を見渡せる景色がある。景色の見渡し方や、そもそも、見渡せる場所が変わっている」というお話であり、「だからこそ、みなさん、老年に入ったいま、書いてみていかがですか?」という投げ掛けを、会場を埋め尽くす老年期に入っているであろうみなさんに語り掛けた松浦さんに、好感を抱きました。


そして、自分も焦ることはない、まず、身体に無理のないようにやっていこう。とりあえず、風邪を治そう、と感じたのでした。

ゆっくり構えていきます。できれば、気長に見守っていてください。

当面は、3月に公演するひとり芝居『横なぐりの成長痛』を中心にやっていきます!
よろしくお願い致します!





手繰り寄せろよ、足枷の愛〜

ひとり芝居 『横なぐりの成長痛』



2018年3月18日(日)於・錦糸町シルクロードカフェ

作・演出:近藤蛇口

出演:もり

映像:飯田華子

音楽:ペヨー太

横なぐりの成長痛:公式ブログ  

http://yokonaguri.seesaa.net/

チケットご予約

https://481engine.com/rsrv/pc_webform.php?d=0ddbf2efb3&s=&PHPSESSID=6da189d535a4f07438037c5db7584fe1


錦糸町 シルクロードカフェ

http://www.silkroad-cafe.com/


昼・・13時15分開場 14時開演(15時30分終演予定)

夜・・17時45分開場 18時30分開演(20時終演予定)

チケット料金 前売2500円 当日3000円

(ドリンク代別・強制ではありません)




植岡勇二:ペヨー太




ウェブサイト: https://ueokayuji.tumblr.com/

サウンドクラウド: https://soundcloud.com/uepeyo