「人として」を重んじる人が好き。
常識や一般論を行動の基準におくのではなく、「人として」と言う部分で行動を選択していく人が好きだ。
明確な理由は2つ。
①なぜなら、常識や一般論は、自分で作ったわけでは無いから。
②ゆえに、それを基準に行動していくと、その結果起こったトラブルを相手のせいにして終わることになるから。
その仕組みに気づいている人が好き。
そもそも、「人として」と言うところから始まり、常識や一般論を上手にバランスをとりながらそれを採用していくから。
年齢に関係なくそれが大人だと思うし、それを当たり前のこととして自分に設定している人が。
ここからこの話が、常識や一般論を否定していると言う話ではないことが伝われば幸いです。歩み寄るための共通認識が常識であって、人を裁くための基準が常識ではない、と言う話です。
人間の体の構造上、そこで形成される社会に、いじめは起こり得る=これが常識です=だからと言っていじめをしていいわけではない、と思うし、そこに参加するつもりもない=この考え方が、人として、の理性的な常識かと思っています。
人のせいにしない人が好き。
ゆえに、自分の限界を自分で決める難しさを背負うことになろうとも、いつかそのバランス感覚をコントロールできるようになるまで、その人はあきらめないだろうから。
そしてそのバランス感覚によって、他者との距離を測るだろうから。
そのバランス感覚を更新することを「成長」と呼んだり、新しいバランス感覚を得ることを「歩み寄り」と呼ぶのではないでしょうか?
そんなわけで、人として他者に歩み寄ることを、基本自分に課している人が好きです。
が……
デビル・マン・オセロ
ひっくり返します。
常識や一般論を行動の基準におくのではなく、「人として」と言う部分で行動を選択していく人が好き。
その選択の基準こそがその人の生きる姿勢であり、そこに各々の成熟さが結果、表現されると思うから。
そう思っているのにも関わらず、自分の理解できないものや、反対意見の人に歩み寄る必要はないと言う自分がいるなら、その自分は、あまり好きではない。
何故ならそれは、「人としてものを考えたい『自分』」を基準にしている、自己中心的な幼い自分だから。
で、そういう自分を好きではないと言う壁が自分にあるなら、その嫌悪感の原因や、自分の幼さの原因を分析したり、それを回避するための答えが腑に落ちるまで探したい。
そんなふうに、自分や物事の二面性を同時に意識しながら話を展開することが、人として大切だと、僕自身、思っています。
特に自分が何かをクリアに言い切るときには。
言い切ったことの裏側にある情報は、その言い切りが強い分だけ、隠されてしまうからこそ。
そして、その裏側が発語されるまで、耳をすましてじっと待ち合える人間関係が好きです。
それを平等な関係と呼ぶのではないでしょうか?
で、同時に、相手に平等に振る舞えなくなる時が、自分はまだまだあるよなぁ、と反省。
そういったことに、いつも気づかせてくれる友達が好き。
昨日、本気で語ってくれた二人の美しい人に、この文章を捧げます。
P
「オレ、真っ黒だけど、キミが好きだよ」/勇者ダイヤモンド(即興詩人・AIUEOKA) 即興コラボライブ@野外フェス・里山アートピック(埼玉・皆野市)