藤村ペヨ・前編(ヒーロー見参!:森俊範 番外編)
先週末、長野県・南木曽にある温泉宿『富貴の森』に泊まられせて頂きました〜。
岐阜県・中津川で行われる『島崎藤村記念文芸祭』の受賞式に出る絡みで、この度、友人二人が、御祝いとして一泊旅行をプレゼントしてくださり。
宿に向う送迎バスでは、白人さんのカップルと一緒になりました。が、そこでは互いに話はせずでした。
で、宿に到着し、共用リビングにて、カップルの男性の方と話す機会を得、彼がイギリスから来ていること、日本を数か所回っていることなどを聞きました。
久々に持ち前の中学英語で話したのでしたが、そのイケメン好青年は、どうやら恋人と日本をグルグル回ってるみたいで、僕は、「ロング! サークル!」とか、訳のわからない単語を並べ、返答。
夕飯は隣の席になり、好青年の相方である美人さんの声がすごくきれいで、あ、朗読活動のために英語習得しよ、とも思いました。
(英語を習得すると、耳も声も良くなる場合がある、と以前、本で読んだので)
貸し切り露天風呂→夜中の貸し切り状態大浴場→星の見える露天風呂へ。
月が空を青く染め、何だか、自分はもう、『死ぬ準備』に入ったんだなと思いました。
もちろんそれは、前向きな意味。
何かを誰かに伝え、環境・状況を変え、好きな人たちがずっと暮らしやすい状態を、自分は整えに入ったんだなと気付きました。
最近、対象への無知が、対象に対する恐怖や不信感を生むような気がしています。そして無知は不安を誘発し、見えない敵を自分の中につくり上げる。それは人にとって強いストレスになる。ならば、その不安や状況を客観的に分析、見えない敵を具体的な悩みにし、そこから解決策を生み出すようにしたい。
そういう姿勢で生きはじめると、漠然な悩みや不安を、放置しないで済む。いくらインパクトあるショックを受けても、自分で何とかしようと動ける。で、壁にぶつかったら、信頼できる誰かに相談を発信すればいい。自立とは孤立ではなく、少しずつまわりの人たちに分配し、頼れることだから。
1999年春のある午後、インターネット創生記を牽引していたメディアプロデューサーであり、心の師匠・森俊範さんと砧公園を歩いていました。
その時、歩道に一枚のフロッピーディスクが落ちていました。
僕は先生にこう言いました。
「あのフロッピーの中には、どんな情報が入ってるんですかね?」と。
フロッピーを横目に先生が返します。
「究極の情報だよ」と。
「究極の情報って、何なんですかね?」とさらに僕は問い掛けます。
「お前はどう思う?」先生が問い返します。
そのとき僕は何かを言いいました。が、今は思い出せません。
森先生が答えました。
「究極の情報とは、思い掛けない情報のことだよ」と。
そして僕が言いました。
「『グレイプバイン』という日本のバンドの歌詞に、「誰かに話せ/思い掛けないことを」という言葉があるんです。思い掛けず、誰かに何かを打ち明けると、思い掛けない答えが返ってくることがある。つまり僕にとって『究極の情報』とは、自分以外の誰かのことだと思います」
そう答えると、森先生は、僕の眼を捉えながら、
「お前いくつになった?」 と、問い掛けました。
「また忘れたんですか? 今年25ですよ」と、僕は答えました。
そして森先生が、いつもの口癖を僕に伝えました。
「やれ」、 と。
森先生、長い間、お待たせしてすみませんでした。
やります。
僕のまわりには、今、究極の情報が集結しています。
だから、やれると思います。
みんなの協力を借りながらになりますが、僕は詩人であり、誰かと誰かをつなぎ合わせる『関係性』そのものですから。
そのことは、森先生が昔から展開していた広告の手法、ワン・トゥ・ワン・マーケティングから学び取りました。
http://adv.yomiuri.co.jp/ojo_archive/02number/199810/10toku1.html
僕の一番の才能は、空の容器であることかもしれません。
世界に絶望し、空っぽになり、そこに愛を満たさなければ生きられなかったこと。
そんな自分の性質を全然把握できないまま、シンプルに、まわりの人たちに愛され、愛を信じ、疑わずに来れたこと。
愛を教えてくれた、家族や友人、恋人たちに感謝しています。
植岡勇二・ペヨー太
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『GRAPEVINE/「here」from 15th Anniversary live at NHK Hall (2012.09.26)』