デジタルzin!ポエジン『宇宙塵』/即興詩人・AI UEOKA

即興詩人・AI UEOKAによるデジタルzin! 雑多な芸術・らくがき日記。

ステレス・ストレス・クリーニング・ボーイ


昨日は、世界的に活躍されているアーティスト、池田一(いけだ・いち)さんのトークショーに行ってきました。

今度の月曜日に、僕ら「カタワラノ永遠」もライブをやる、「東京創造芸術祭」でのイベントです。

現在、その会場にて、芸術とゲームへの自分なりの解釈を展示物を通して示すゲームをやってます。




インスタレーションゲーム・デビルマンオセロ:イメージ画」


さて、今回のスピーカーである池田一さんは、1995年に、国連が、五十周年記念アートカレンダー[The Message: We the peoples...]を作る際、「世界の12人のアーティスト」の一人に選ばれたアーティストでもあります。が、日本では基本、無名の方です。

僕は、音楽家のススムヨコタさんが大好きです。が、日本では知る人ぞ知る的な感じです。
ちなみにススムヨコタさんは、ビョークレディオヘッドトム・ヨークなどにも、かなりリスペクトされています。


さらに、そこら中で、無名の世界チャンプたちがランドセルを背負って学校に行き、天才っぷりを発揮しているのが詩の日常です。

ヘルマン・ヘッセは、処女長編小説「郷愁」にて「神話の神々は、毎日、子供たちの魂を通して創造している」的な言葉で、物語をはじめたりもしています。


昨日も、集まったお客さんは、関係者以外で一人。
会場には、他、池田一さんとつながりのある方が三人。

トークショーの進行役・インタビュアーである、カタワラノ永遠:織田さんが、この状況について、「どう思いますか?」と、池田一さんに尋ねました。

池田一さんは、「日本と自分ではレイヤーが違うから、これは良い状況だと思います」と答えました。
世界で活動するという事はそういうことだよな、と、その返答に、清々しさを覚えました。


僕自身、自分を活かせる場所で生きることを選択する時期が来ていたので、ま、そっちの方が楽だなと、正直思いました。もちろん、未知のストレスは増える可能性はあるという前提で。

でも、「楽」と「楽しい」は、明らかに違うので、そこはじっくり考えます。

冒頭、池田さんが、作品や芸術という言葉に、不快感や違和感を覚えていると言っていて、そこもいいなぁと思いました。

道を具体的に具現化するのが「道具」の意味。これは僕の持論です。
僕も、自分の言葉や作品は、道を開くための道具だと考えていたので、同感でした。


そして基本、「作品」や「芸術」という言葉を使うときは、相手がそれを使っているのを確認した上で、カウンターとして使います。「健常者」・「障害者」という言葉を使う時も、基本カウンターです。

他はたいがい、相手との間をつなぐ道具として、言葉を選びます。
(時に、選択をミスりもしますが)

次に、池田さんは「見立て」という概念について語られました。

「見立て」とは、日本庭園の石庭などにみる、枯山水置石、または盆栽など、表したい「何か」を、凝縮 ・ミニチュア化し表現する手法や仕組みのことです。

「見立て」という手法は、日本唯一のものであり、それが、自分のプロジェクトを表す言葉に当てはまるだろうと、池田さんは伝えてくださりました。つまり、その「見立て」の話自体が、池田さんのやっていること・アートプロジェクトを表す「見立て言葉」です。


それを伝えたくて、僕は、自分なりに、「詩」についての考え方を語りました。

詩とは何か?

自分と対象との間、つまり、関係性の中に浮かび上がる「何か」のこと。

そういった意味で、「秋」という言葉自体は、「見立てのミニチュア」であり、「秋」と「私」の間には、夕焼けや赤とんぼという「詩」が浮かび上がる。

それが、僕の「見立て観」です、とお伝えすると、池田さんはこう返答してくださいました。

「もちろんそれはわかります、あなたの言っていることも合っています。でも、今、話している「見立て」は、 厳密にいうと違う事柄を指します」

この会話を通して、僕は状況を「見立て」、一旦突っ込んで話すのをやめようと、身を引きました。
もちろん身を引くのは、池田さんの引き出しをのぞくためです。

その前の日に、主宰者の河合さんに、数分間で池田さんの活動の概要を伺い、上野の不忍池を作品化したプロジェクトの話を教えて頂きました。

そしてその際、「多分僕は、詩人という立ち位置から、何も作らず・何も設置せずに、世界を作品化していくんだと思います」と、河合さんにリアクションしました。

今現在、僕は映像で詩をつくっています。
人はたぶんそれを、ドキュメンタリー映画とか、映像作品と定義するかと思います。
そう解釈される方には、僕もそう答えます。
もちろんそこに不快感はありません。言葉や名前は、伝え合うためにある道具だからです。

僕という詩人が、主観として世界をどう感じているかということを伝えるために、今年の5月24日に、約二時間、動画撮影しました。近所の半径300メートルで、その二時間の中に、ものすごく色々なことが起こります。

そこで展開された時間の不思議を、今、映像で形にしています。
世界の作品化を表す、シンプルな伝え方として。

と、池田一さんにもその話をしようとして、一旦、身を引いた、という展開です。

次に、池田一さんは、ご自身のメッセージを置き換えるときに媒介している、「水」について語ってくださりました。

例えば、「川」についてのアートプロジェクトのお話を展開された際には、「川は国を超えて流れる」「人は、川の水は見るが、川の全体を見ないことが多々」など、川と人との本質について語り、そこから、実際池田一さんが「川」という媒体を通して、何を? どうしたか? という話に流れ込んでいきます。

例えば、地域や名前によって区切られた、長さ5キロ程の川があるとして、そこでアートプロジェクトを行う際には、まず、池田一さんは、川に出向き、川を一番理解しやすいポイントを巡ると言います。

それは、川の本流をつくる、川の枝の根元にあたる「合流地点」です。

その30カ所以上の合流地点、全てを、まず池田一さんは、くまなく見て歩きます。

「芸術」の定義は、一般的に「感覚の交換」といわれますが、池田一さんはアーティストとして、その川そのものをメッセージに換えるために、川と感覚の交換を試みたのだな、と僕は考えました。

僕が質問します。
「それを行った結果、池田さんに何を感じたんですか?」

池田さんが一言答えます。
「川と出会えました」、と。


僕は、川との出会いを果たした池田さんが、それをどのように現地で表現したのかを、実際現場で感じたかったなと思いました。が、このトークショーだけでも、それが感じられたかのように思えたので満足でした(もちろん今も、情報を後追いする気はありません)。

池田一さんの言葉には身体性がある。
それが、池田さん発コミュニケーションの、伝導率を創造しているんだなと思いました。

あっという間の二時間の後、池田一さんのトークショーは、意外とあっさり終わりました。
今回、池田一さんのコミュニケーションや、織田さんの質問の鋭角さはアートでした。
が、アートプロジェクトを行う際、プランや形式にこだわらず、即興で場を作ることをやっていらっしゃる池田一さんという「水」を活かせるのは、やはり池田さん自身でしかなく、トークショーの最中に、川が合流することもなければ、河口も海も生まれない。

でも、その感じもまた、このイベントを「見立て」るには、いい材料でした。

で、トークショーが終わった後に、僕は感想として以下のように述べさせて頂きました。

「ホロンという概念があって、それは、個は全であり、全は個である、という考え方です。ひとつのものは個としてあり、それが全体としてつながっている。そして互いに響き合う。そういう構造が、僕は大好きです。もちろんそれは、日本はAV動画の文化が発達してて日本には女優の方がいる、ゆえに、日本人の若い女の子全員がビッチである、とかいうアホな偏見的構造ではなく、AV女優の方にも、いい人が当たり前にいるのは、当たり前過ぎる話です、という種類の話を指します(僕がここでいうホロンは、全体は個人に還元されない、個人を拡大しても全体が見える訳ではない、というホロン構造です)」


「 僕は普段、このホロンの考え方を軸に動いています。 僕は日常的に、いろいろなコミュニティに顔を出しますが、どこにも属すつもりはなく、自分自身が「川の合流地点」となって、個人として動き、全体を見渡しながら、つながりの波紋を広げる。いろんな方に出会い、情報を頂き、それを自分なりに加工し、合流地点そのものをバトンに変え、また違うコミュニティへと移動し、そのバトンを渡し、情報を混ぜ合わせる、それが僕のやっていることです」

つまり僕は、文化的遺伝子ミームを運ぶミツバチみたいなものなのだと思います。

その感想を聞いた主宰者の河合さんが、

「それって自分の宣伝じゃん」って、笑ってくれたのが良かったです。

最近、僕は、誤解されることが嫌ではなく、むしろ誤解のメカニズムに、ものすごく興味があります。ゆえに僕は、誤解を恐れません。

誤解を受けることによって損をするのは当たり前の前提で、自分の言いたいことを、時と場合によっては、相手の迷惑にならない範囲で、相手との境界線を「見立て」、敢えてギリギリのラインを攻めたりすることも、たまに、あります。

するとどうなるか?

相手が何をどう誤解するかによって、相手の認識の文脈や回路、価値観が見えることが多々ある。
相手の思考回路の枝が見え、そこに、人の深い部分での文脈や、自分との関係性が見えてくるのが、実は面白いんです。

そんな訳で僕は、互いの誤解を大切にしています。

そして、この人になら話は伝わるなという人には、誤解を解きに行きます。
で、そもそも僕は、関わる人、ほとんど全ての方に対し、タイミングの許す範囲で誤解を解きに行きます。

僕に限っていうなら、僕が他人を誤解する時は、大概、限られた情報の中で物事を判断してる時です。情報が少な過ぎる時。


今回のトークショーにて、池田さんが全体を捉えることへの大切さについて、

「全体を知るには、水の視点で360度から川を取り囲むように物事を見る。波紋の外から、円周をたどる」

と語られていて、 僕と情報の集め方が近い方だと思いました、と池田さんには、お話させて頂きました。

僕も普段、可能な限り、あらゆる角度から情報を集め、いろんな視点から物事を見ることを心がけるようにはしています。

つまり、いろんな客観を集めて、主観に至る。
つまり、それが「人脈」です。

でも、一番対人関係において良いのは、直接、客観であるご本人に、いろんな話を聞くとです。ゆえに、相手と一緒にいる時間こそが大切なんだと、つくづく思います。

そういったことを、大枠で、池田一さんも同じように感じていたのを知れたのは、自分のことを知るためにも、すごく良い機会でした。

もちろん今の僕は、逆立ちしても、今の池田一さんがやられている規模での活動を成功させるだけの実力も経験もありません。そこはゆっくり基礎をかため、階段を一段ずつのぼりたいと思います。

ここでひとつ、問いが立ちます。

なぜ僕は、日本にこだわるんだろう? と。
たぶんその答えはシンプルで、「楽なゲーム」よりも「難易度が高くとも、楽しいゲーム」が好きだからだろうな、と、さっき思いました。

今は、単純に日本で、僕自身のアートプロジェクトとして、家族や周りの好きな人たちが喜んでくれそうなことをやりたいのだと思います。


例えば、甥っ子たちが喜ぶことをやりたいなと思った時には……

現在、どんな表現活動よりも、清掃の仕事が一番楽しい。
それは同時に、僕の表現活動であり、ゲームだから。
で、そこで得たことを活かし、こんな漫画を考える。

清掃を哲学しながら掃除をしていく清掃員を主人公に、彼が、世界一ハイスピードに掃除をこなす清掃員に成長していく過程を描いた「ステルス・ストレス・クリーニング・ボーイ」という連載漫画企画を、週刊少年ジャンプに持ち込もうかな、とか。

そしてこれは清掃の極意ですが、最も早く清掃を終わらせる方法、それは美しい環境を保つこと尽きます。
すると、掃除そのものをしなくてもいい、という現象さえ起こり得るからです。
(ちなみにこの例えは実話です。以前僕は、環境衛生講習の講師の方が、実際、微動だにせず、視線だけを部屋中に走らせ、3秒で清掃を終えるのを目の当たりにしたのです。その瞬間、清掃の極道へと、僕は歩きはじめたのです)


それについては、今回の展示会、「デビルマンオセロ」にて、文章のパネルで展開しています。
そんなことを自由にやらせてくださる東京創造芸術祭のようなイベントこそ、ずっと秘密にしておきたいお祭りであり、最高だったりするなと、今回も思いました。

そして、そういった秘密の祭りは、世界中で日常的に行わています。
僕の住む団地でさえ。毎日。そしてそれは特別なことではない。
それが僕の、「芸術」への解釈です。

ゆえに、誰が何をどう発信し、それをどう感じるかを、他人にデザインされることを恐れるのです。
ゆえに、インスタをやっても、フィルタも使わなければ、フォロワーも増やしにいかない。そして、SNSは基本後回し。

たぶんこの価値観は、池田一さんにも、伝わる気がします。


月曜日、ゲームの概念を壊しにいきます。
自分自身が、つまらないゲームに、はまらないために。





マイク・とうそん またの名を ミクロモアイ