オカエリ・トウキョウ・コラボレーション・コンティニュー :第二話 同じ星を見ている
「ボーダーレス:0(ラブ)/魂は鏡」
「主観と客観:君自身&僕自身」
「世界とわたしたち:天国の壁」
3つの視点から見つめた
コミュニケーションを通して
今の時代と
ひとを想う
三部構成の展示会
ひとに出会えるスペース
そして ライブ
これらの言葉を記したコンセプトボードを入口に展示し、絵・言葉・写真などの平面作品で構成された展示空間を展開しました。開催2日目、『第二部:主観と客観:君自身&僕自身』の展示パートに、今回『地獄の花言葉』を提出してくれた芳賀孝史さんが会場を観て、本当に嬉しそうにニヤニヤと笑ってくれたのが嬉しかった。
芳賀さんの心の器、受容力がなければ、この企画は成り立たなかったとも思います。ありがとうございました。地獄の花 【阿修羅の阿呆】■ 生息地:覚悟の城
■ 開花時期:お菓子のシワとシワと合わせて幸せしはじめる冬
■ 習性:バレンタインデーを戦争に換えたがる
地獄の花言葉 「はるか後方からのスタートだと思ってください」
~~~~~~~~~~ 意味 ~~~~~~~~~~
だめだねえ、俺はいつまでも騙され続けるのか?
マーボーチェズ。
She loves you, yeah yeah yeah.
It’s a super man.
ぱじゅーん。
ああ品川。
人生の終わりに思うこと。
ぱじゅーん。
アルカジャジーラ。
おいしいバブーン。
サカザキ。
クソ。
バカにしやがって。
30日(土)にその日限定で開催したライブイベントでは、たくさんの方に出演して頂きました。そしてその会場のMCにて僕は述べました。
(ライブレポートは後日別枠で掲載予定)
「僕はずっと『世界を壊すゲーム』をやってきました。『壊す』といっても、物騒なものでもなんでもなく、コミュニケーションを用いて自分の既成概念を破壊し、その瓦礫から新しい何かを創造するという、普段から皆さんが行っている当たり前を『ゲーム』と呼び、日々意識しているだけのことです。
今回立ち上げた『サヨナラ・トウキョウ・コミュニケーション』というグループは、それを行うための、ただのゲームシステムに過ぎません。ひとりひとり互いに自立し合いながら、出入りも自由であるという仕組みのもと、個々の責任意識において自由に情報を発信できるゲームシステム。僕はただ、ゲームクリエイターとしてこのゲームステージをつくっただけです。
この公民館は無料で展示会もできれば、無料ライブもできる。やりたい人ができる範囲で自由にやればいい。自由に使ってください。僕がここに居る必要さえ、もうないと思っています。
僕が行いたかったのは、心の冷え切った東京的なコミュニケーションへの「さよなら」であり、同時に、ずっと相変わらずにすぐ傍らにある、東京的コラボレーションへの「おかえり」です。
そして裏テーマは、今回この企画に関わって頂いている「才能を守り通すことに成功している」みなさんを、ここを発信地としていつか流通にのせることです。
が、もうすでに世間では、その流れは加速しているので、僕が何をする必要もないよなぁとも正直感じています」
今回のイベントは、その全てが僕らのポエムだ。僕らは時空間を使って詩を描いている。だから今回の作品やライブ、この会場にあるそれら全てがポエムであると解釈して貰えたら幸いです。
でもその感覚はやはり、一般的にはすんなり伝わりづらいように思うのです。故に今回、よりシンプルにそれが伝わるよう、展示という空間とライブという時間を持って、感覚に訴えかける手法を取りました。
しかし、展示会会場を見回すと、どうしても、僕らの問題意識を明確に示唆してくれる、より具体的な言葉を求めはじめる自分がいました。丁度そのタイミングで、いつもお世話になっているあらきひろしさんが作品を提出してくださいました。
今回、あらきさんに依頼させて頂いた作品は、『主観と客観』という言葉からイメージするあらきさんなりの現時点での「答え」。そしてそれが同時に、未来への「問い」になっていることを条件付けさせて頂きました。
あらきさんが提出してくださったテキスト作品は、一本の映画を通して語られる文章。偶然にもその映画の内容は、被災地である福島のことを描いたものでした。今回その作品を、展示会の入口に展示させて頂きました。
『同じ星を見ているのに』
あるドキュメンタリーのシーンから。
「福島は危険な場所だ」と8歳になる娘を抱え、パートで日々の生活を切り詰めながら東京の片隅でやっと生きていく母。
「福島は杏安全です」といって、震災後も先祖代々伝わる、農地を朝から日が暮れるまで泥まみれになって野菜作りをするおばさん。
彼女らの言葉が主観的な事実だとしたら、福島の現実は一体どのように考えれば良いのだろう。
我々のようなものの客観的な意見の位置をどこに置いたら良いのだろう。
そもそもテレビのコメンテーターが撒き散らす主観的な意見に何の意味があるのだろうか?
みんな、同じ星を見ているはずなのに。
あらきひろし