「永遠からの手紙」
「永遠からの手紙」
というテーマで、音源アルバムをつくっています。
即興(ピアノ&朗読)による音の詩集です。今度出す『君がラブソングに見えた』『そりゅうしのうた』の後継作となる音源アルバムです。
それに絡め、一昨日団地の軒下ピアノで即興をしました。で、今回の即興は、図らずも『ポエミュージック』1stアルバム『涙(にじ)の花束/雨の花びらで花束を編む』の総括となるような即興となりました。
今回、僕のテーマである「詩とは何か?」を探りつつ展開した即興で、「恋」と「愛」の差異や共通項からはじまり、「スピリチュアル」「物理学」「心理学」「政治」「経済」など、様々なジャンルを渡りながらつなぐことを試みます。
一昨日の午前中に、60代くらいのおじさまがベンチでひとり聴いてくれていた際のライブ録音なので、やはり、作品に他者が介すとより開けたものになるよなぁという感触です。
僕の考え方として、「詩」における言語は、実は数字みたいなものなんだろうなぁと感じていて。
数学問題に答えを出した際の快楽を「数楽」と呼ぶらしいのですが、その回答と出会った感触・感覚で描く言葉の羅列が、僕の言うところの『詩』であるのではないか? と勝手に考えていて。
だから、自分にとって「詩」は、常にありのまま=完璧でなければならないし、「詩人」はそのありのまま=完璧が見えているものなのでは? という感覚を、自他ともに意識するようにはしていて。
個人的な意見として、小説は『時間芸術』だと思っていて。時系列ありきで描くので、時間の流れにいる作家本人も、稚拙なものも容易くつくれれば、かなりアップデートもされやすいんですけど。
詩は『永遠芸術』なので、変わりようがない。完璧に仕上がった!って「数楽」が走ったものは、やはり、手直しすることはほとんどなく。
もちろん、これらの完璧感は、自分で勝手に決めているだけですし、主観的な感覚なんですけど。要は、自分の中で自分の完璧を認識できていたり、自己規定できることが大切かと思っています。パズルの完成はあらかじめある。そこに向い、推敲していくというか。
即興朗読を意識的にはじめて早10年。すでにかなりの数の録音音源があるのですが、この「数楽」=「完璧な詩にいたる流れ」は、特にそこで培った感覚でした。
とはいえ、浅はかな知識をひけらかせば、そこには「浅はかな僕」が完璧に映し出され、それが詩と化す。まぁ、時間は過去に戻れない以上、完璧にしかなり得ないというのもありますが。詩は特に、嘘が付けない真のメディアかと感じてもいますし。
で、今回の即興は、自分なりにやり切った感も、自分にとっての「数楽」も、多少なりともあります。
もちろんこれは、自分の中の答えに辿り着いた、という(基準がないが故に、どちらかというと妄想っぽい感じかもね?)感覚なのですが。で、僕が何故、言葉を選び数学みたいなことをやっているかと言ったら、
「言葉」=絶対に絶対に至ることのできないと言う、「絶対性を有している」。
ここに強く惹かれているからです!(基準の自由さですね)。つまり、心の旅を経て、身体で辿り着いたその答えが、どこまで広く普遍性を持つかどうかが、作家としての勝負であり、作家でいる意味であるかと思う訳です。
何はともあれ、ぜひ動画を観てみてください! そして、ひとつだけお約束できることがあります。
この作品は完璧に、僕にしか作れないであろう、というユニークさから生まれています→ま、アホなんですww
そのくらい等身大の、今の自分がここにある気がしたんです。阿呆阿修羅としての「数楽」的にもww
作家は、誰かに好かれるためにつくるのではない気がします。
伝えるためにつくらずにいれない、そういう状態を作家というのかと思うのです。
そして同時に、あなたの好きも・嫌いも、良いも・悪いも、どうか自由に感じてください。
誰かに時間を頂けること、頂けたこと、そのものが、作家を作家の目指す場所へ向かわせるエネルギーとして貯蔵されていくのですから。
「永遠からの手紙」即興(ピアノ&朗読)/詩人・AI UEOKA ポエミュージック@国立市・谷保『むっさ21』ストリートピアノ streetpiano&poetryreading