常夏ピアノ・方程式
スティーブン・キング原作、キューブリック監督の映画「シャイニング」は観ましたか? キューブリックは、シナリオは書けても小説は書けないんだって。何故なら、小説を書こうとすると必ず気が狂うだろうと確信していたから、とか。だから避けて通ったみたい。
で、この「シャイニング」は、買い取った冬のホテルに籠って、小説を書き上げようとする小説家志望(だったかな?)の父が、まぁ、ホテルの邪気にやられ、悪い何かに憑りつかれてしまうのだけど、その幼い息子を殺しに掛かるという追撃シーンがラストにあって。
雪原についた足跡を追い掛けてくる父をだますために、息子は、ネズミとかがよく使うとある技でこれを切り抜けます。それは、追っていた足跡がいつの間にか、そこで途絶えているという風に見せるために、自分の足跡を、一歩一歩、戻るように踏んでいって身を隠すという手法。
その少年が、バックシャンプをしながら、自分の足跡を戻っていくっていうシーンがすごく好きで。僕は、二十代の頃、とある女の子と、江の島海岸の波打ち際で、そのバックトラップ遊びを――その場の思い付きで――やってみたのです。
波打ち際に出来る足あとを、波に消される前にバックトラップで戻る、とかそんなルールはあったかどうか、記憶に怪しいけど、無邪気に楽しかった。
その子とは、波打ち際に縁があって、朝焼けを見ながら波打ち際で、両手を広げてグルグル回る遊びを二人でしてたら、その子が思い切り回り過ぎて、フラフラバシャーン! ずぶ濡れになったそのTシャツを、僕のと取り換えて、僕は濡れネズミになりながら、辻堂海岸から都内まで電車で帰った思い出もあります。
そんな、波打ち際の子供のような遊び、それがこの『常夏ピアノ』のアイディアの原点かもしれないな、と、不意に思い出しました。
その頃は、魔法にでもかけられたかのように純粋な部分を持っていて、それが僕の宝でもあった。それが今や、呪いを掛けたように黒くよどんでしまったけれど、それはそれ、そんな自分も受け入れることが出来るようにもなったし、そんなよどみの中にも美しく陽が照る日はあると、思えるようになっていった。
そんな時に、『常夏ピアノ』の絵本・音楽化の話をユキくんに持ちかけて貰い、そして今回、まめちゃんが描き下ろしてくれた絵を見た時、自分の中にあった忘れてた純粋さ、みたいなものが湧き上がって、息苦しくなるくらいの思いをした。
こんなに幸せな絵がある=幸せになっていいんだ。という、なんだかわからないけどすごく都合よくも、美しい方程式が、その場で出来上がったのでした。
(ユキくんの音楽もこれに似ていて、苦しくてどうしようもない時、ユキくんの音楽をよくかけるのだけど、こんなにあたたかな音楽がある=助かっていいんだ、という方程式が、その時、成り立つのです)
これが、今年8月、秩父、ツグミ工芸舎さんの「ひぐらしストア」にて展開する、『常夏ピアノ』の企画展の、原体験というかコアな部分。だから、すごく単純に、この物語のもつ輝きや、高揚しつつも穏やかな時間、純粋さ、音楽のうつくしさ、そういったものが、ダイレクトに伝わる、そんな企画展示会を行うことが出来たら、と思っています。
(つづく)
ウエペヨ