デジタルzin!ポエジン『宇宙塵』/即興詩人・AI UEOKA

即興詩人・AI UEOKAによるデジタルzin! 雑多な芸術・らくがき日記。

YOU


ここ数年、作品をつくること、特に『詩』に関しては、だんだん自由を得られるようになってきました。作家・森博嗣さんのエッセイ『自由をつくる 自在に生きる』の中の「自由とは思い通りになること」という言葉を、だんだんと自身の詩作において体現できるようになってきたからです。もちろん、まだまだ上はありますが。


自由を得たきっかけは、2015年秋から翌年1月まで、部屋にこもって、自身の第一詩集『そりゅうしのうた』を、出版に漕ぎ着けるべく、ずっと編集・校正・電子書籍の形に落とし込む作業をしていた時期に遡ります。その頃、数百時間かけ、徹底的に自分の詩を推敲・編集を繰り返す中で、「あ、詩ってこうやって整えるんだ」ということが明確にわかったのがひとつ。(無事『そりゅうしのうた』は、『マイナビ現代詩歌セレクション』にラインナップされ、現在、マイナビ出版から発行されています)


もうひとつは、どんな作業も面倒だと感じる感覚がほとんどなくなってきた、ということ。それは、ひとつの本をつくるには、書くことだけでなく、それに付随した作業(雑用含め)が、ものすごく大事になってくるということを知ったからです。どんな仕事をするのでも、準備さえ万端整っていれば、かなり高い確率で成功に持っていける。そのために欠かせないのが雑用です。


「夢を叶える方法」も、だいたいこのやり方と同じだろうと思ってます。きちんと準備さえ整えてあげれば、多くの夢は現実化します。そう言った意味で、今の僕には、『夢』という概念はほとんどありません。「夢を叶える」という言葉は、どこか儚い。いまの僕にとっては「やりたいことを実現する」の方が、しっくりくる。いかに行動すればそれは実現するのか? を、徹底的に考え、実際、動けるようになったからです。もちろん、こういう身体性を得ることができたのは、ここ数年なのですが。(つまり、『夢』という精神的で形ないものを、『現実』という身体的・物質に落とし込むことができるようになったのです)


最近、とある試験を受け、結果のお知らせが届きました。詳しくは後日ご報告させて頂きますが、結果は合格範囲内。嬉しいお知らせでありながら、思っていたほど舞い上がらない自分がいました。その理由は、上記に述べた通りです。実現化するために動き切った、という感覚が、自分の中にあったから、それはただの現実でしかないからです(もちろん、思った以上に舞い上がらない自分が、はじめ不思議でもありましたが)。


もちろん、その結果を、周りの方にご報告させて頂いた際に、ずっと応援してくださっていたみなさんが、自分のことのように喜んでくださり、それが何よりも嬉しかったです。ありがとうございました! そういった意味で、答案用紙を読んでくださった試験官の方や、関係者の方にも本当に感謝しています。今回、チャンスを与えてくださりありがとうございます!


作家にとって、その試験の結果は、『簿記』や『FP』などの『資格』取得のようなものでもあると思います。それを念頭に置いて、過去問もやり、試験に合格するための対策・分析もし、その結果から生まれたものを、技術的に、答案用紙に落とし込んだので、『簿記』や『FP』の試験と同じように、合格するであろうことは、自分の中でなんとなく感じ取っていました。


一見抽象的に思える、そのとある試験問題に、まず僕は法則を見出そうとしました。そしてその法則を完璧な数字で表すように、シンプルで揺らぎない言語に変換しました。その結果、ある程度、合格に向けて技術的にシステム化を行えたことが、今回大きかったのだと思います。


もちろん、抽象度の高い試験でしたので、最後は、試験官の方とのめぐり合わせ、つまり『運』の要素も左右するとは思いますが、今回は、できるだけ、その『運』の要素を技術により補完することを、意識的に試みました。が、やはり今回も、僕の『運』は、結果いい方向に大きく作用したように感じています。

こういったことができるようになったのは、周りの方の普段からのアドバイスのおかげでした。「植岡さんは、作品を『センス』でつくっている部分が大きい。その『センス』を『技術』に落とし込めば、創作活動は飛躍的に安定する」という意見を頂き、そのあたりから、最近通っている、職業訓練校の事務作業の模擬で習得したこと(目標・作業を設定し、行動し、間違いがあれば原因を探り、再度目標を設定し直し、行動する。その繰り返し)を創作活動に応用しはじめた、ということも大きいのだと思っています。


最近、事務作業も、厨房の洗い物も、スーパーへの買い出しも、創作活動と同じレベルの楽しさを見出せる、ということに気付けました。つまり、僕はただの芸術家かぶれであり、本当の意味での創造性が自分の側になかったから、事務作業などは楽しめないであろうと、完全に勘違いしていただけだったのです。

そういった流れもあり、僕の昔からの儚い夢であった「つくりたいことをつくりつづけていられること」は、最近、実現しました。すべてが芸術であることを感じられるなら、何をやっていても、つくることに変わりはないと気付けたからです。だから、来年春以降には、企業に就職し、一見平凡な生活を送りたいと思っています。もちろん、もはや、普通という概念はどこにもありませんが。


自分の中の才能と、世間との隔たりを埋めるには、技術が必要になってくるのだと、よく理解しました。自分の才能は自分にしかわからないこともある。それを相手に示すには、技術が必要になる。もちろん詩人や創作者には、全ての人の中に才能を見出す感受性が備わっていなければ、なかなかいいものを世に残すことは難しいなと思います。それを自分は、性格的な側面もあり、意外とすんなりやってきましたが、自分の才能を相手が受け取ってくれるかどうかは、全く別の問題なんです。当たり前ですが……。


「何で自分の作品が相手に伝わらないんだろう?」 という局面が、今まで多々ありました。何人もの人に「植岡さんは才能はないよね」と、正直に伝えてくださったこともありました。もちろん、僕の作品を好きで応援してくださる方も中にはいました。しかし、そのことによって、「わかる人にはわかる」というおごりが生まれ、「わかる人にだけわかればいい」という卑屈に変わった時期もあったように思います。


つまり、自分の作品を、勝手に、相手に伝わるものだと思い込んでいただけ。自分の才能の多くは、その作品で表現できている、と勝手に思い込んでいただけだったんです。そして何より問題だったのは、そういう自分と周囲の現実にさえ気付けてなかった。つまり、自分の現在地を認識できていないせいで、目的地への辿り着き方が具体的に考案できなかったのです。


それに気付けてから、徹底的に伝えるための技術や工夫について考え、やり込みました。そして状況はガラリと変わっていきました。
過去のある一時期就いてくれていた、とある編集者さんが、「自分の感覚を信じてやり切るだけ」という言葉を残してくださり、それをずっと信じ、やり切って来たんだと思います。
まだまだ道は長い。だけれどいま、そういったことに気付けたということが、若い頃との大きな差ではあると思っています。


もちろん、『大器晩成』という言葉は、都合のいい言葉で、若い頃から限界まで時間を注ぎ込めた人は、若くても大成すると思っています。単純に、時間の掛け方、集中力や覚悟の違いでしかないでしょうし。覚悟を決め、集中力を上げ、それによって際限なく時間を注ぎ込む、といったことができるようになるまで、結果、僕には、様々な体験が必要だった、ということだと思います。その体験を通じ、気付きを得るのに、人よりもだいぶ時間が掛かってしまいましたが。


現段階では、「人はタイムマシンにはなれない」ということも理解していますので、過去を変えようとは全く思いませんし、もし、いま、タイムマシンになれても、たぶん同じ人生をなぞり直すだろうと思います。


それはつまりこういうことです。
自己実現を表わす言葉として「何者かになる」というような言い方を、巷ではよく耳にしますが、僕はずっと、『自分自身』になりたかったんだと思います。そして僕はようやく、『自分』になれた。裏を返すと、僕は、ずっとどこかで自分に嘘をつきつづけ、それによって、自分を信用できない時期がつづいていたのだと思います。自分に嘘をつき、自分を信用できないと、多くの場合、相手も信用できなくもなります。信用という概念の基盤が、揺らいでいるからです。


信用のないところに愛は生まれません。僕はずっとどこかで、それを見ることから逃げていたのだと思います。
いまは自分を信用しています。自分になれたのですから。それは、みなさんの応援があってのことだと強く確信しています。ありがとうございます。
そしていま、僕が独りの自分として立てるようになってみてはじめて、みなさんひとりひとりと真につながることができるのだろうと感じています。


人生が真にはじまったのだ、という感覚が、いま確かにあります。
これから、みなさんが嫌っていうほど、恩返しをさせて頂きたいと思っていますので、こいつ、うざいな、と感じつつでもいいので、これからも、お付き合いよろしくお願い致します!



植岡勇二・ペヨー太