デジタルzin!ポエジン『宇宙塵』/即興詩人・AI UEOKA

即興詩人・AI UEOKAによるデジタルzin! 雑多な芸術・らくがき日記。

『健忘社会』に逆行するもの

ここ数年、物忘れが特に激しい。
そんな話を友人たちにすると、だいたい返ってくるのが、
「僕もですよ」
ということば。それは40代の僕らに限らず、20代、30代、上は60代といった具合に、歳も多くの年代にばらけている。
もちろん、それには個人差もある。しかしどうしてここまで、物忘れの多い人たちが周りにいるのだろうと、最近、ふと不思議に思いはじめた。


そもそも「物忘れ」というものは、情報過多によって引き起こされるという科学的な説が今のところ有力である。
それは、どういうことかというと、歳を重ねた人たちによく見られる「物忘れ」は、脳の中の情報の蓄積が多すぎて、その中から的確な情報をピックアップするのに、時間がかかる、という状態をいうらしい。


記憶はある種不変なものとして、脳に蓄積され、無くなりはしない、らしいのだ。ただ、脳というハードディスクの中の容量が多くなりすぎ、その情報を検索するのに時間がかかる、またはその記憶がどこにいったのか見つけ出せない状態を「物忘れ」というのだ。


そんな話しを僕は、数年前にある脳科学の本で読んだし、最近、最先端の技術者である、とある友人からも聞いた。


その頃から僕は『健忘社会』についてうっすらと考えはじめていた。
ここで僕の言う『健忘社会』」とは何か?
それはつまり、現代の日本の社会の僕なりの呼び名である。


現代は消費社会だ。誰が創ったシステムだが知らないし、その犯人も最早探し当てようにも限度あると思うが、僕たちは、自らが乗っかっている消費社会のシステムの中に組み込まれている。


システム、仕組みを創り出すものは、同時にシステムの奴隷になる。
そのシステムを回し、甘い汁を吸うものもいるだろうが、最早出来上がってしまったシステムは、自立しはじめ、そのシステムを回す多くのものを奴隷と化す。技術企業が、最先端技術を開発し続け、それを消費させることによってのみ、新しい技術を創り出す歯車を保てるかのように。


しかし、そんな流れと逆行する考え方を、この社会で体現し、発信していこうという団体もいる。
先に「物忘れ」について教えてくれたその技術者は、技術者という仕事を持ちながらも、その団体に所属している。


その彼が、最近、こんな記事を書いた。それは、蓄積する物、簡単に消費されてはいかない物、例えばそれは歴史あるクラッシック音楽とか、そういったものの、永続性はどこから生まれるのか? また彼が所属するその団体のスタッフ、個々人が持ち得る姿勢と、いかに通じる部分があるのかということを、「時間」と「欲」という二つのことばをキーワードに展開している、という記事だ。


その記事を読んだとき、僕はある美術展を思い出した。それは古代エジプトの遺跡などを展示する展示会で、僕はそこでなぜ、彼らエジプト人は「石」というものにそのメッセージを込めたのか? ということを考えたのだった。


僕の中の答えはこうだ。石は時代を超えて、残る。そしてその石と、永久の星の運行をリンクさせることによって、そのメッセージをより長く残るものにしたのではないのかと。
実際、彼らのメッセージは、何千年のときが過ぎた今も、確実に残っている。その意味が現代人に正確に解読されているかどうかは、別として。


人は子孫を残すことによって、DNAという自身のプログラムを本能的に残そうとする。片や人は、文化を残すことによって、時をつなぐ精神的遺伝子「ミーム」もまた生み出し、残す。肉体的記憶と精神的記憶。その二つの絡み合いが、今、この現代を創り上げている。


現代人は情報を残す手段として、「デジタル」に力を注いでいる。もしも、永遠にデジタル信号を保管できる「何か」が現れたときには、それは進化したピラミッドのようなものだ。デジタルは不変であるのだから。しかし、人類は今、電力というものを使い、デジタルを保存する力を有する。「電力」それはつねに消費されるもの。現代社会においてそれは重要なキーワードだ。


話をもとに戻そう。現代は「電力」を動力にした「デジタル消費社会」だ。そしてこの消費社会は、あらゆる事故や問題を孕みつつ肥大し、いまや「健忘社会」を創り出そうとしている。刺激を与え、同時に忘れさせ、また刺激を消費させることのエンドレス。僕ら人類の歴史性は損なわれ続け、今この瞬間の刹那の中に、人が生を見出し続けるかのように。


いや、僕には正直わからないことだらけだ。何故なら僕も、デジタルの申し子であり、その恩恵に漬かりつつ、生活しているのだから。
そんな僕らが現実を直視しないよう、この「健忘システム」があるのでは? ということを危惧するかのように、僕は、インターネットやマスメディアから距離を置いている節もあるが、僕にもやはり「健忘」があるのは事実なのだから。
「健忘」は物忘れだけでなく、考える力を奪うものだと、今にして思う。僕は、考えること、立ち止まることを忘れたまま、ただ流されているのかもしれない。


そんな中、技術者である彼が書き残したその記事は、今の時代にこそ、意味や意義のある、蓄積されるものであると僕は感じた。
いや、そんな大げさに言わなくていい。それは、今の僕に必要なひとつの「きっかけ」となる貴重な石だったのだ。
その彼や彼らに宛てて、僕はこの文章を書いた。彼らの想いの中に、僕の想いが蓄積されることを願いつつ。



植岡勇二(ウエペヨ)