天然の才能=身体に備わる野性について
友人がSNSで、「天才」についてコメントくれたので。。それついて考えてました。
「天才」という言葉について考えた時、よく思い出すことがありんす。
(「ありんす」、って何だ? 蟻のリンス? 蟻がリンクしあってる巣?だね、きっと。うん。そうしよう……って、話逸れましたが……)
前、某芸術大学にたまに忍び込んで授業を受けてて、そこの先生(20年前から「トトロ」は死後の世界って論を展開してた先生)が言ってたんですけど、「私は美人です」、
と思っていても、それは美人ではなく、
「あなたは美人ですね」、
と自分以外の誰かに言われて、初めて美人は成り立つ。
つまり、美人と言うのは、社会的な尺度です。
と、その先生は話していて。そういう意味合いで、僕は、それぞれの身体の違い=個性=才能=天才を論じたのだろうと、思います。何が言いたいかというと。。
僕にとっての天才とは、
「みんな基本的に天才で、それが社会的に表される瞬間が、あるか、ないか、の違い」、みたいなことだと思っていて。
僕は、平日週4日・毎日1時間、外で仕事をすることがあります。
で、わりかし緑の多い環境でその仕事をやっているので、その時、動物や虫と関わる機会も多いんです。で、そんな彼らが、ものすごい動きや動作をしても、誰も天才とは呼ばないなぁ、と。
理由は、彼らが人間ではないから。
彼らには、人間社会の尺度は適用されないから。でも、僕の周りの人だってそういう野性の感覚を見せる瞬間がある。なぜなら、もともとそういった野性の感覚機能を人間の身体は有していたりもするわけだから。
ゆえに、野性が発動する瞬間があるのは、誰にも当たり前にあるとは思っていて。遺伝子や脳の作りがもともとそうなってるので。それがどの程度の率で、人間の身体として発動し得るかは、また別の話だけれど。
でも、社会に慣れれば慣れるほど、野性は消さなきゃいけない展開になっていったりするのは当たり前かとは、もちろん思っていて。
もしくは、消されていくとか。で、唯一野性を出せる場所が、それぞれあったりなかったり。それがひとりの部屋だったり、家族や恋人の前でだったり、ステージの上だったり、小説家であれば、本の中だけだったりとか。
つまりひとの身体に備わる野性は、相手が社会的に何をやっていようが、関係なく起こり得ることを、少なくとも僕は目撃してきたと言うだけの話ですね。
そういった目線で世間を眺めている側面が、多少あるので、逆説的に、みんなが持っているであろう野性=天然の才能を、実は社会が隠したり、消したりしているのではないか? と思える瞬間も、僕には多々あるということですね。
僕の経験では、周りの方とより深く関われば関わるほど、うわ!この人天才だわ!と感じる瞬間を垣間見る機会が増える!、と言う感覚です。
そして大体、深く関わった人の90%位の方々に、それを見てきたと言うだけの話です。
今までにいろいろな人たちと会ってきて、やっぱりみんな違うけど、みんなそれぞれすごいなぁという感覚は、そういうところからも来ています。
もちろん、何を、どう、すごいと感じるか?は、僕の感じ方でしかありませんが。
僕の紹介する「すごい人」を、「すごくない」と批判する人も少ないので、まぁ、ある程度は客観性もあるのかなぁと。
つまり、自分と誰かとの関係性が「天才」という尺度を決めるのであれば、少なくとも、自分と他人との関係性を変えることができたら、自分の中で、天才と感じられる人がふえるよなぁ、という話でした。
で、自分はその理屈で動いていて、それが実際証明される瞬間に多々立ち会っている、だけのことっす。
(「ことっす」、って何だ?笑 あ! コトコト煮込んだスープのことか! アホだね、相変わらず、愛の蛙)
AIUEOKA