天国の壁を破る勇者たち:01:


疑問



時間というものは本当にあるのか?

もしかしたら、常識的には過去から未来へと流れていると思っている時間という名の感じ方は、実は、未来から過去にやってきてるのではないか?

そもそも何で、最近僕は、そんなことを意識的に考えているのだろうか?


仮定


ふと気付いた。

もしかしたら、言葉と音楽が生まれたことによって、時間の流れが逆転したのではないか? って。

変な思い付きと思われるだろうけど、自分の中ではこの問いがしっくりくる。それは何故だろう?
そこから突き詰めようと思う。

仮説


音楽は時間の流れに形を与えることに成功した。
言葉は身体症状の流れ(感情)に形を与えることに成功した。

そして、本来形として残り得ないものが、形となり、そこから時間の流れが逆転したのではないか?

時間は本来、過去から未来へ流れていると思われている。
が、実際は、未来から来る時間を、感覚でろ過し、全てがその瞬間過去になり、一瞬で形を成す。

つまり、言葉と音楽に境がなく、ただそれらが、詩のままで居られた時代には、常識通り、時間は過去から未来へ流れていたかもしれないし、そもそも時間の概念なんて、多分なかったのではないか? という仮説が、勝手に自分の中で立っている。

証明的空想


なぜなら、自分が作る詩が、未来の予言書では無いけど、基本的に時間の概念を超えているであろう様々なタイムレス的奇跡を、日常の中で起こし続けているから。

もちろんそれは、脳科学的に説明のつくことであり、自分の中でマニュアル化もした。
昔から、奇跡をデフォルトに生きているし、その無意識を意識に変えただけのことでしかない。

と、言ったところで、これはたやすく他人には理解されないだろうし、あえて他人を説得するつもりもない。うまく伝われば幸いだけど、既成概念を疑ったり壊したりすることが、そんなに生易しいことでもないと言う事もわかっている。


そのことをわかりやすく示すために、多摩の映画祭に、僕の日常の時間をほとんど編集なしで時系列に並べた映像作品を応募した。そこでは当たり前のように、必然的な偶然が起こり続けるが、自分の中のその仕組みを完全に理解している。

もちろん、他の方とは身体のつくりや、存在そのものが違うので、誰にでもあてはまりうるのか? も考えつつ。

でも、自分なりには、それがどこでどうなっているかと言う事は理解していて、そのマニュアル的コントロール方法を映画の中でも伝えたし、時間制限の関係でカットしたシーンにも、そのまま収録されている。


人間の脳は基本、リスク管理として、現状維持に精神を誘導する。
脳をコントロールし、生活や行動を思い通りに行う自由が、たやすく手に入ると思わない。身体を変えるにが時間は必要だから。


実際、僕の周りでこれができている方は少数であるかのように映るが、本当のことはわからない。

全ての物事が、自分の視点を通した主観である以上、あらゆることが推測でしかない。

知識や情報に人格は無いから、人格のある人間が生み出した知識や情報にはダブルスタンダードは最低条件となる。絶対を求めたければ数学の世界に行けと、アインシュタインも言っている。



20代前半の頃から、言語で、宇宙の真理を解き明かす数式を解明しようと考えていた。
ポエムであればそれができると考えていた。
ポエムは矛盾と絶対を同列にできる形式であるから。
人格と数学を同時に展開することができるから。

(つづく〜)



AIUEOKA